僕という男は格闘技や武術をあれこれやっていた過去があり、
よくも悪くも(犯罪とは一切関係がなくもひたすらに不運な、という意味で)超絶特殊な人生を歩んできたため、
「日本の文化」というものの捉え方は、いわゆる「観光」だの「教養」だのというイメージとはだいぶかけ離れている。
しかしそれが間違えているわけでもないし、特に悪いことをした結果でもないので、
日本という国とその文化を語るうえでは、違った切り口で紹介できるのではないだろうか?
・・・・・・・・と、古い知人からリクエストをいただいたので、
令和ついでにやっちゃえよというアドバイス通りに、ちょっとばかり紹介してみることにした。
先日フェンシング協会のトップが、
「今後は英語ができなきゃ実力があっても代表には選ばない!」とかいう、
アタマのイカレた寝言をほざいたことがちょっと話題になったが・・・
フェンシング協会のトップ本人は英語ができないという非常に愉快なオチだからな。
そんなら英会話のスピーチやディベートの大会で優勝した奴をフェンサーにすればいいじゃないか。
もうフェンシングって名乗るのやめて英会話教室でもやったら???????????????????
まあ、そいつ個人が常軌を逸したパワハラ野郎にして無能の鑑(ベネッセからいくら貰ったんだ?)なのはさておき。
僕が思ったのは、
ああ、こいつ日本の文化ってのを何も知らないから、
ワールドワイドなものになることだけが正しいと言い切っちゃうんだろうな、と。
とはいえこの太田雄貴ってのは確かにとんでもない苦労人ではあるんだけど、
かといって苦労を活かせておらず、完璧に間違ってるんだよね。
自分でいうとおり、スポーツマンとして優秀だったかもしれないけど、肝心のオツムはカラッポだから。
こんな無能が自分と同い年だとか考えたくもねえけど・・・
なんでかって?
それは、日本という国があまりにも
(よい意味で)特殊すぎることに由来するんだわ。
たとえば。
一例としてあげるが、日本には剣道というスポーツがあるが、実は剣道ができたのは戦後の話だ。
日本の伝統文化や戦闘術としての剣「術」がGHQに潰されそうになったため、
スポーツとしての剣「道」が生まれた。いってみれば剣「道」は剣「術」の劣化版でしかない。
これはただの事実であり、僕の好き嫌いの問題ではない。関係者は一度「公職追放」を食らっているからな。
政治的な話はさておき。
剣道には下段攻撃もなければ、踏み込みだの残心だの発声だのがなければ一本として認めないとか、
勝ったあとガッツポーズをしたら失格だとか、
建前上スポーツであるはずなのに、どう考えてもスポーツではない性格が色濃く残っているのも事実だ。
というか、踏み込みや発声が十分なのかどうかは誰がどう判定するんだっていう話だからね。
剣道はあくまでも審判の判断に委ねられてしまうため、
フィギュアスケートのような採点競技でしかない、というのが本質だ。
・・・審判が決めることじゃないよな、本来の、剣による戦闘と、その技術の成果を競い合う行為ってのは。
とまあ、正直に申し上げて僕は剣道ってのは、スポーツとしてみる限りクソ競技だと思っている。
その点ではフェンシングが採用している、最新電子機器による機械判定のほうがよほど公平だ。
剣道ではそれができない理由は後述するけどね。
精神性を保持するためにガッツポーズをするなってのには賛成するんだけど、
実際には踏み込みや発声なんかなくても、木刀でおもいっきりデコ殴られれば死ぬだろ?
ましてや審判がダメといったらダメ、なんてねえ・・・
とはいえ残心やガッツポーズ禁止ってのは型や所作として大事だと思うし、
踏み込みや発声だって、剣道の稽古をしていれば自然と身につくんだから、
明文化されたルールとしてそれを要求するのは3段まで、くらいのルールがあってもいいと思う。
絶対にそれをやらないバカ正直さや律儀さは、いかにも日本の文化らしくて嫌いじゃないけどね。
僕は規則がカタクルシイぶんには絶対に遵守してやるぞと燃えるタイプの人間だからな。
それでも実際の戦いにおいて、
踏み込みや発声がないから相手の脳天をカチ割って絶命させても一本(勝利)にはならない、
だなんてアホな話は一切ないんだからねえ。
そこが、剣道がスポーツにも武術にもなりきれない根源的な理由なんだよね。
欧米人の横暴さによって叩き潰されそうになった文化をどうにかして守ろうとした口実が、剣道だから。
そもそも剣道でいう錬士だの教士だの範士だのっていう肩書きも、
剣道を何年以上やってないとあげないよ、っていうルールがあるから、
高い段位を得るのは、みんな体力の衰えたジーサンばっかり。
つまり、今一番実力のある若い奴は、物理的にお偉いさんになれないようにできている。
これ、どう考えてもおかしいよな。
そういう古臭い年功序列制度があってもいいと思う反面で、実力枠での多少の昇段は認めるべきじゃないか?
むしろ剣道人気を支えているのはトシ食って衰えた連中じゃなくて、
スピーディーな動きと力強いテクニックで覇を競う、現役の若い選手であるはずなのに。
三段か四段くらいの若手が全日本で優勝しても錬士にすらなれないってのは、なあ。
優勝経験どころかベスト16にすら入れなかった奴が、
ただ長く続けただけで教士だの範士だのって言われても、剣道がただのスポーツであれば誰も納得しねえべさ。
結局、そこなんだよね。
剣道がただのスポーツじゃないという点。
フェンシングみたいに電子判定にしない理由。
ここからが本題だ。
実はフェンシングって1913年に団体ができたくらいには、非常に新しいスポーツなんだよね。
いかにも中世の決闘がモデルになっていそうだけど、
ちゃんとした整備が始まってからは、まだ100年ちょっとしか経っていない。
なら剣道なんか戦後にできたから・・・と言いたくなるが、
先述のように、剣道は数百年以上の歴史がある剣術の流れを汲むものであり、
昨日今日作られた形式に基づくわけじゃないんだよね。
というか、日本の剣術よりも歴史の長い国なんか殆どないのが実情だしな。
兵法三大源流ともいわれる念流だの陰流だの神道流だのという話を始めるととんでもなく時間を食うので、
日本の剣術は最長で1000年の歴史がある、と覚えておいてくれればいい。
つまりどういうことか?
カンのいい人ならもうわかってると思うけど、
フェンシングは中世の決闘スタイルに由来を持つというだけで、
中世からきちんと保全・継承されてきたものじゃないんだよね。
フェンシングがマイナースポーツにすぎない理由はそこにある。そして太田雄貴は間違いなくそれを知らない。
しかも細々と継承されてきたフェンシング文化でさえ貴族の娯楽だったから、庶民には浸透してないんだよ。
そこが、江戸時代以降ほぼ全ての文化を庶民が担ってきた日本との最大の違いでもある。
フェンシングは中世風ですと言い張ってるだけで、実際に中世にそんなことをしていたかどうかは定かじゃない。
ましてや電子機器で判定してるんだから、スポーツとしては公平でも、形式としては明確に変貌してしまっている。
中世に電子機器なんかねーからな。もはや別ゲーですよ。
ところが剣道は、日本人が病的な記録魔であることもあいまって、
大昔の記録が当たり前のように残っていて、しかもそれらの精度が非常に高い。
おまけに代々きちんと継承されてきたので、剣道の文化が剣道だけで完結しているわけじゃない。
外国人の研究者が昔の気候変動を調べているときに、
昔の日本人の残した日記や記録の正確さを見て驚愕するほどには、
日本人の記録魔っぷりは一部で有名だったりするのだが、それはさておき。
さらりと「残心(ざんしん)」という言葉を使ったが、
実はこの言葉、剣道の言葉ではない。
日本舞踊や茶道にも、弓道にもある言葉だ。
動作が終わったからといって油断をしてはいけない、
そこで気を抜いたら死んだフリした敵にやられるかもしれない、
だから行為や作法が一通り終わった後も常に意識し続けるための作法を別途用意したわけで、それを残心という。
その場に、その一連の所作を実行した心を残す、という意味で考えてだいたいあってる。
お水のオネーチャンいわく「男女がヤることヤった後の余韻とか後戯とかピロートークのこと?」とのことだが、
そ の 認 識 で 実 際 正 し い 。
終わったからハイサヨウナラ、じゃあないんだよな、日本は。
他の国はどーだかしらねーし心底どーでもいい。
祭りが終わったら、ちゃんと後片付けをするべきだろ? 「立つ鳥跡を濁さず」ってやつだ。
日本が作ったオリジナル漢字に「躾(しつけ)」があるが、
これは「美」しい所作が「身」につくようにする、という漢字だ。
武道だろうが舞踊だろうが、美しい動作や型を常に意識し続けなければならない、という発想の産物だといえる。
そのへんは「武士(当時としては非常に珍しい公務員待遇の職業軍人)」と「禅(仏教)」の融合として、
平安と戦国の間ころに生まれたっぽいモノ? くらいの認識でだいたいあっている。
だから、フェンシングには残心がない。ガッツポーズしても負けにはならない。
しょせん近現代になってスポーツとして整備されたものにすぎないから、
思想ではなく形式と定義だけが存在している。
だから、剣道には残心がある。ガッツポーズしたら負けになる。
あくまでも剣だけではなく、茶道や礼法や舞踊にも通じる、
一連の「武芸百般」のひとつとして、所作の美しさも強さのうちだと判断されるから。
要するに、剣道は奥深いんだよな。フェンシングにはそれがない。
竹刀のデザインだって「切先三寸(遠心力が乗る先端部分が一番攻撃力が高い)」という思想からくるものだし、
剣道のルールにはちゃんと「切先三寸を当てろ」というものがある。
あるいは剣道で最初に教わる「すり足」という動き方も、
歌舞伎や能や舞踊などでいう「すり足」とほぼ同じもので、
「板につく」という言葉は「すり足」が上手にできていることに由来する。
そしてこの「すり足」を、格闘技の側面から考えていくとさらに面白い。
そもそも武芸百般の中には「組討」、いわゆる徒手格闘も含まれているからな。
いわゆる「総合格闘技」が日本原産であるように、「何でもアリ」こそ日本の得意技なのだ。
武道と呼ばれるもの、相撲や空手や柔道、あるいは柔術など、日本にある歴史の長い格闘技においても、
あるいはボクシングやレスリングなどの洋風格闘技でも、
「すり足」移動は基本とされているが、それはなぜか?
そもそも古今東西の格闘技の原点にある思想は全て同じであり、
神なり客なりに見せるための「催し物の洗練」か、
殺されないようにしつつ「確実に殺すための合理化」か、なんだよな。
特に、普通の人が想像する格闘技や武道の大半は、
相手が武器を持っているかもしれないから、というタイプのルールや作法が至る所にある。
柔道や剣道の「座法」や「礼法」も、相手が不意打ちを仕掛けてくるかもしれないから、という理由の型がある。
ボクシングのパンチング技術は全ての格闘技の基本として非常に洗練されているが、
それをいいかえるなら、
「数え切れないほど多くの人間をブン殴ってきた結果、どう殴ったらより迅速に、より確実に殺せるのか?」だからな。
「相手のほうが有利な状況で、自分が素手でも確実に相手を止める(最悪殺す)ためにはどうすればいいのか?」
という、現代の日本にあっては非常に特殊な状況を前提としているから、
物騒に聞こえるかもしれないが、護身術というものは最悪の状況をも想定してナンボであるわけだ。
・・・あ、いわゆる「女性のための護身術」とか「非力な老人でもやれる技の真髄」みたいなのは大嘘だからね?
合気道とか関節技、いわゆる「柔」術ってのは、
ムキムキマッチョマンな大男どうしが、力でも技でも拮抗しているときに、
搦め手とか奇策として用いるための一発芸だからね。
某東大卒の合気道高段者と組み手をやったことがあるけど、
僕ほどの筋力があれば、まっとうな人間の腕力で繰り出す関節技なんか全くきかない。
彼もそれは重々承知だったが、まさか相手の姿勢を崩すことすらできないなんて、と驚いていたっけか。
もちろん護身術なんてのは、力も体格も格闘の心得もないド素人の雑魚にしか通用しない。
このブログのトップにある画像は僕のものだが、
普通の人なら、こういう体型をした男に女の腕力で勝てるとは思わんだろう?
実際そのとおりだからな。
女子五輪メダリストなんて、単純な運動能力でみれば男子高校生相当だし。
技を発揮させるにも力や速度が必要で、速度の発揮には力が要る。
ma=F (質量×加速度=力)
という、いわゆる運動方程式なる物理学ないし現実世界における最大の「原理」が示すとおり。
技の発揮には力と速度が、速度の発揮にも力が要る。
だから世界最速のウサイン・ボルトはマッチョだろ? 「素早いガリ」は存在しない。
無論「細マッチョ」も幻想にすぎない。
格闘家は病院送り寸前まで減量するから細く見えるだけで、
あんな筋肉の塊は、普通の人間から見ればゴリゴリのゴリマッチョでしかありえない。
技と速度を過信しすぎるのは日本人特有の、よくないほうの精神論・根性論だってのは覚えておこう。
格闘家おじさんとの約束だぞ!
ちょいと話が逸れた。
格闘技ってのは基本的に最悪の状況を想定するもので、
「対武器徒手」っていう思想が原点にあるんだよね、という話だった。
「対武器徒手」とは、武器を持った相手に素手で挑む、ということだ。
・・・・なんかとんでもないことを喋っているが、
それと「すり足」に何の関係があると思う?
たとえば「なぎなた」は女の武器だとされているが、もちろんそんなことはない。
なぎなたは元々ムキムキマッチョな「僧兵」の武器だったのだから、
どんな武器だろうと技だろうと、チビガリよりマッチョが使うほうが効率がいいに決まっている。
その「なぎなた」だが、剣道と違って下段攻撃がある。
しかしもちろん、なぎなたも「すり足」で移動する。
Q:足を狙われるのだから、ぴょんぴょん飛び跳ねたほうが有利なんじゃない?
A:それは格ゲーの話。リアル格闘はジャンプするだけで絶対に不利。
当たり前なことを言うけど、地球には重力があるだろ?
まあもちろん太陽にも月にも宇宙にも重力があるんだけど、
少なくとも地上には1Gという重力がかかってるだろ?
つまり、人類は常に1Gという制限を受けていることになる。
それは格闘技をしている最中でも変わらない。
そこで「すり足」を考えるわけだ。
一度ジャンプしてしまうと、次に地面に足がつくまでに必要な時間は、
ジャンプした高さをhとすると・・・っていう高校物理の初歩になるんだが、
大事なのは「ジャンプすると、地面に足がつくまでに時間がかかる」ってことなんだよな。
下段攻撃に限らず、ジャブだろうがストレートだろうが上段廻し蹴りだろうが、
相手の攻撃に対処するには、ガードするか、移動して避けるしかないだろ?
で、ガードばかりしてるのも辛いし、いずれ必ずガードは崩されるから、
格闘技に限らず森羅万象の物体は「防御」が不利で「攻撃・破壊」が有利なわけよ。
核シェルターが核兵器に耐えられるってのは理屈の話で、
もはや人間が作ったものは、必ず人間が壊せるってことだからね。
戦争って行為も、攻めるほうが有利だからこそ、普通は専守防衛なんてことは絶対に言わない。
だから憲法9条を守らせておけば、日本を侵略したがってる連中は超有利になるわけだが、それはさておき。
その物理法則に従うと、
格闘技は「耐える」よりも「避ける」とか、「そもそも当たらないようにする」とかってのが大事になる。
ボクシングでいうダッキング(しゃがむ)だのスウェーバック(上体を後ろに逸らす)だのという技術だな。
さもなくば間合いを拡げて、そもそも攻撃が届かないようにする必要があるわけだが、
しかしこの回避技術は全て、足が地面についていないと使えない。
・・・おわかりかな?
大きくジャンプすると足が地面から離れてしまい、
その間は、相手の攻撃や移動に対処できなくなってしまう。
空中で全ての攻撃を回避する、なんてのは漫画やゲームやアニメの話。
リアル格闘は地味でも堅実なことが最上の美徳だから、
派手さを求めて殺されるくらいなら、ダサくて確実に生き残ることを選ぶ。
地面に足がついていなければ、相手の攻撃や移動に対処できない。
だからいつでも、足を地面から離すべきではない。
これは舞踊でも同じで、体をきちんと支え、姿勢を保ったまま移動するためには、
足を大きく浮かせると片足で立つことになり、どうしてもバランスが崩れてしまう。
それを防ぐために、格闘技だろうが武道だろうが舞踊だろうが、「すり足」を基本とするわけだ。
もちろん、そんな歴史やウンチクなんか欠片もないフェンシングの選手でも、
移動するときは自然とすり足状態になるし、
「地面から足を浮かせている間は無防備になる」という基本原理は共通している。
あるいは柔道に代表される「足払い」という技術も、
人体の構造と脳の情報処理、および重力を逆手にとった技術であるため、
「一度ハマれば必ずキマる」。
「一度足を地面から浮かせると、ふたたび足が地面につきそうなとき、脳はちょっとだけ先に『着地』を認識する」
という、ヒトが避けられない生理的仕様があるため、
「足を地面から大きく浮かせると、着地の瞬間を狙って足払いをお見舞いされる」わけだ。
だから格闘技や武道に限らず、物理的な姿勢の安定を要する動作の全ては、
「足を大きく浮かせず、できるだけ地面から離さないようにして動く」だろ?
物理法則と人体の構造、
および脳の機能を研究し続けた経験則の結晶が、
いわゆる「すり足」であるわけだ。格闘技でも、武道でも、舞踊でも、何でも。
テレビで「接客の達人!」みたいな特集が組まれることがあるだろうけど、
彼らの足運びを見てみるといい。
みんな間違いなく、上手な「すり足」ができているはずだから。
・・・・・・ここまでが前置きだ、っていったら怒る?
たかが7000字ちょいしかないんだけどな。
まあ、とりあえず言えることとしてさ?
日本の文化ってのは決して、
ただなんとなく昔の人が寝言をほざいて、
その寝言を何も考えずに覚え、
後生大事に守り続けてきただけ、
ってワケじゃないんだよね。
物理法則だの、人体の構造だの、
見た目の美しさだの、
油断しないための心構えだの、
ひとつの芸を極めんとすれば、
自然と多くのことが学べるんだよね。
何のための礼法なのか、
何のための基礎なのか、
何のための先人の教えなのか、ってね。
現代でこそ格闘技や武術といった技能は、
物理学や医学によってだいぶ変わってしまった(その結果が総合格闘技)んだけど、
それらの下地には、先人たちの経験則や確信からくる歴史・文化・単語・概念などがあるわけよ。
ここではフェンシングと剣道で比較してみたけど、
西洋では保全・継承ってものが行われなかった(まあ革命で王様ブッ殺すような連中だし)から、
ぶっちゃけてしまうと、今ある西洋剣術ってのはただのパチモノなんだよね。
律儀に守り続けてきた先人たちの努力の結晶は、
確かに科学というカタチで代用できてしまうけれども、
すごいと思わないか?
20世紀を終えて21世紀まできてようやく判明して普及してきたような理論を、
先人たちは自己分析だけで獲得してたんだぜ?
その経験則の結晶を、21世紀まで伝え残し続けてきてくれたんだぜ?
確かに、アタマで学べば理解はできる。
だが実際にそれを体で覚えることによって、
ダイエットにもなるし、運動習慣もつくし、老化に伴う筋力低下や骨折の予防にも活かせる。
「普通の国」にはないんだよね、あって当たり前な伝統や、文化や、歴史や、それに伴う先人の知恵ってのがさ。
だからフェンシングには、剣道のような奥深さがない。
スポーツとしてみるぶんには、剣道の数百倍どころでなく高純度で公平だけどね。
日本はいつだって、天皇というリーダーがいた。
形式にせよ実務上にせよ、常にトップは天皇だった。
だから日本人同士で殺しあった(戦国時代)の後でも、日本人どうしでまとまることができた。
徳川幕府に限らず「征夷大将軍」ってのは、「天皇のお墨付き」って意味だからな。
そうやって、天皇の名のもとに江戸の平和が訪れて、町人文化が花開いたわけだ。
そんな日本だからこそ、各自が好きに研究できた。
各自が思いついたものを自由に共有できた。
各自が共有したもののうち、人気を博したものが伝統となり、今に伝わっているわけだ。
これは「家庭科の授業」もそうなんだけどね・・・?
もともとアメリカから輸入された「家庭科の授業」なんだけど、
今や8割以上のアメリカ人が、家庭科の授業をいっさい受けずに社会に出るんだよね。
だから、日本人は男でもボタンを縫う程度の裁縫ができる人がそこそこいるっていうと、すげえ驚く人が少なくない。
そしてこの家庭科の授業だが、
男にも女にもきちんと押し付けて叩き込むから、
日本人は自力で服を縫うために必要な基礎を、なんとなくだけど、みーんな教えてもらえるんだよね。
そのため、ファッションに興味を持った人が自分で服を作ろうと思ったときに、
「ミシンの使い方や縫い方といった基礎に触れたことがある」という、
ちょっとばかりの経験があると、すごく安心できるんだよね。
学校の授業でみんなやってたから。身近なこととして覚えているから。
そのため、日本人がファッションに興味を持ったとき、
「自分のブランド」を立ち上げるってことに対する敷居が非常に低くなる。
だから日本には個人レベルのファッションブランドがたくさんある。
意外と知られていないことだけど、
外国人観光客に「日本のどこが好きですか?」って質問すると、
「日本はファッションが素晴らしい」って答える人が意外なほど多いんだよね。
その、外国人が驚く「多様なファッション文化」があるのも、家庭科の授業があるからなんだよね。
みんなが一度は裁縫に慣れ親しむという経験を持っているから、
そういえば昔やったなと素直に思える。だから挑戦に躊躇しなくて済む。
数学にしろ物理にしろ家庭科にしろ体育にしろ、あるいは日々の掃除当番にしろ、
「ヘタでもいいからみんなと一緒にやったことがある」という確信は、
心理的障壁の排除に最も有効であるのは疑う余地もない。
日本という国は、天皇というリーダーの名のもとに、各自が好き勝手にやってもよかったんだよね。
だから「家庭科の授業」で慣れ親しんだ裁縫の経験を活かして、
ファッションブランドを立ち上げようと思って、それを実行できる人が増えて、多様なファッションが生まれる。
それこそ「ゴスロリ」なんて、完全に日本のファッション文化だからね。
原産地や源流がヨーロッパにあるとはいえ、
あちらの人は頼まれたってゴスロリファッションなんかしない。ただの歴史的衣装だとしか思っていない。
それを着て歩いても許されるほどの「多様性」は、日本くらいにしかないのだよ。
史実として存在した「メイド服」だって、オタクっぽくフリフリヒラヒラにしたらカワイイじゃん?
・・・というのが女の子としては冗談ではないから、日本のファッションやコスプレに憧れる女の子は世界中にいる。
あくまでも天皇が一番上にいるリーダーだから、
社長がなんだ、こんなブラック企業やめてやる、俺が起業してもっといい会社を作るんだ、ということが容易にできる。
しょせんテメェなんか俺と同じで、天皇から名前をもらってる程度の庶民じゃねえか、と。
もちろん、天皇には苗字がない。苗字ってのは王様から貰うものだからね。
世界的権威であるイギリスの女王陛下にすら苗字はあるんだぜ?
(今のエリザベスばーちゃんはelizabeth alexandra maryという)
ちなみにローマの法王にも苗字はある。
(今の法王はJorge Mario Bergoglioという)
一貫して苗字がないのは天皇くらいなもんで、
つまりは格式上、天皇は王ではなく、王の中の王、つまり皇帝なわけだ。
実際に欧米でも「エンペラー」という称号で報道されるのは、日本の天皇だけだ。
しかも普通の国では「今の王様を殺せば俺が次の王だ!」と名乗れてしまう都合上、
嫌になったら全部ブッ壊してリーダーをブッ殺せばいい、という、
実に暴力的な発想が基本認識になっちゃってるんだよね。中国の「易姓革命」なんかまさにソレ。
あるいは「王族殺しの国」である、イエローベストさんが大暴れしている今のフランスみてりゃよくわかる。
あいつら王様を自分らの手でブッ殺しちゃって、国の軸になるはずのものが消えちゃったもんだから、
いまでは「世界一英国王室マニアが多いのはイギリスではなくフランスだ」という笑い話もあるくらいだしな。
そんな「普通の国」では、格差があるのは当たり前なんだよね。
「クソ王をブッ殺した手間のぶんだけ俺にオイシイ思いをさせろよ!」ってなるから。
そしたら王様の身内だけが贔屓されて、格差ができて、庶民がキレて、また王様が殺される。
はっきりいって、アホです。とはいえ陸続きな隣国がある皆様は、それが当たり前だったんだけどね。
でも、日本は島国で、隣国が陸から攻めてくることはなかった。
だから天皇というリーダーを置いて、
「今の殿様がアホなことやっても次のリーダーは天皇が決めればいい」で、争いがすぐに収まったんだよね。
天皇というクッションがあるから、
社長だろうが大臣だろうが、所詮俺ら庶民は等しく二番手にすぎない、と思える。
だから各自が自由に、実力を競い合う土壌ができたんだよね。二番手どうし仲良くやろうぜ、と。
日本人は「長いものに巻かれる」のを好むとはいうが、
この世には「同じリーダーを戴いたまま自国民どうしでブチ殺しあった経験(戦国時代)のある国」なんて、
日本くらいしか現存していないのだからな。長いものに巻かれたくない度でいえば世界でも最高級だ。
どこまでいっても日本の文化ってのは、知れば知るほど奥深い。
しかしながらすぐ隣をみれば、
建国70年程度であることに劣等感を抱き、ありもしない歴史を日々捏造するのに必死な哀れな国もあれば、
日本の16000年に対して5000年程度ではあるが、歴史と文化があったのに自ら壊したアホな国もある。
その違いがなぜ生じたのかっていうと、だいたい天皇にたどり着くんだわ。
形式上天皇がトップで、その下に有象無象がいた。
為政者だろうと庶民だろうと、天皇ではない以上有象無象にすぎないから、
有象無象どうしで自由に競争・表現ができた。
しょせん苗字を持ってる程度の庶民と、苗字を持たない天皇との間には、超えられない壁がある。
あれだ、魔法科高校の劣等生でいうお兄様とか、ソードアート・オンラインでいうキリトとか、
「どうせ最後にはコイツが美味しいとこ持ってくんだろ?」とわかっている存在がいれば、
それ以外は全て舞台装置やモブにすぎないと、素直に思えるのと同じことだ。
・・・たとえが悪かったな。大差はないんだけど。
「山頂以外は全部麓」という暴論めいた発想だけど、
トップが不動なら、それ以外の変化は些細なことだと思えるようになる、ってのは大きいわけよ。
「帰る家」が毎日コロコロ変わったら安心できないでしょ?
日本という国の歴史や文化には、いつだって天皇という「共通の帰る家」があった。
だから日本人は、どれだけ大きな地震や台風という変化があっても、
たとえ行政上のリーダーが暗殺されるようなことがあっても(伊藤博文暗殺および昭和天皇暗殺未遂は韓国人の仕業)、
その上にいる天皇が健在でさえあれば、どうにかなってしまうわけ。
「心の拠り所」の有無ってのは、人間が何かを感じて生きていくうえで、絶対に欠かせない。
そして最も長く続いている心の拠り所が、日本の文化を生み出すに至った原点である「天皇」なわけだ。
令和という年号を考えたり感じたりする前に、
日本という国とその文化、
あるいは天皇について、今一度知っておくといいかもしらんぜ、という話。
だいたい原稿用紙29枚ぶんか・・・アメブロの文字数制限が今の10倍にならねぇかなあ。