かつて僕は運命に負けた。
努力もすれば我慢もしたし、結果も出したし、実力も証明した。
が、他人を庇って事故に巻き込まれて、青春も学歴も記憶も友人も技能も体力も財産も、文字通り全てを失った。
しかしそんな僕だからこそ「誰も何も悪くない」という発想だけは、絶対に、信じるわけにはいかない。
危険運転をしなければよかった、
助けた相手が不注意でなければよかった、
僕にもっと優れた技能があればよかった。
本当の意味で「仕方ない」、自然災害や人身事故などが原因であったとしても、
天気予報を見ておけばよかったという話もあれば、
津波の恐怖なんて小学生向けの図鑑にだって載っているのに、津波を侮った時点で自業自得だとの謗りは免れない。
人身事故だっていつ起こるかわからないのだから、
極力早め行動をし、危険な事故が起こりそうな場所は避けることで、
未然にリスクを減らすことができる。
そもそも本当に「仕方ない、で済ませていい」なら、医者なんか必要ないからな。
必然的な結末を覆し、運命に抗うために医者がいる。
かつて医者の卵だった僕としては、仕方ないで済ませていい生き方なんか知らない。
それでも、医者は万能じゃない。だから医者にだって救えない人はいる。
それは医者のせいじゃない、医療ミスではない、最適な治療方法であり、技量の不足ではなかった、
たとえそう証明されて、世の誰もが責めることがなかったとしても、僕であれば、救えなかった己を呪うだろうよ。
「仕方ない、で済ませていい」状況とは、
悪くもないはずの己を呪う人への慰みであって、
しかし己を呪う人の苦悩を慮ればこそ、慰みこそが針の筵に他ならない。
被害者遺族が自分の奮励努力を目の当たりにして、
「あなたはよくやってくれました」と慰めてくれたとしても、
救えなかった事実は変わらない。
救うために行った行為が無駄になった自分も不甲斐なければ、
救えなかった人の命を惜しむ資格すらない自分も許せない。
・・・・・・そんな性格してたら、どのみち医者はやれなかったって?
安心しろ、感情をブチ殺す訓練は最初に受けたからな。
文字列を並べただけの、あるとすればそうなったであろう感情をただ並べるだけなら、何も心は痛まない。
心は痛まない。
が、自分を愛するっていう発想は、まあ確実に削られていくだろうな。
自分しか呪えるものがないから。
今の自分はそうやって、
日々封じ込め続けてきたはずの自己嫌悪に苛まれている。
事故後の自分は努力をした。結果も出した。
その全てが、自分個人では絶対に防げない、法律を無視して、
暴力でもって、特定個人(じぶんのおや)を殺害することでしか回避できなかった、理不尽により潰された。
正しく生きる立派な人・・・とやらに、かつての自分なら、あるいは届いたのかもしれないが、
そんな人こそ自分以外を絶対に責めはしないのだから、
そのうち燃え尽きるのは目に見えている。
僕はそれを承知でこの生き方を・・・否、この生き方しか選べなかったのだがさ。
普通の人間なら即死するほどの事故に何度も見舞われて、
そのたびに骨折のひとつすらせずに生還し続けてきたこの人生で、
呪うべきは明確に他者であることを確信している。
それでも僕は、自分にできたかもしれない可能性からは逃げたくない。
他人のせいでしかありえない理不尽な事象があったのなら、
それを超越するためにこそ、努力をするべきだから。
自分の責任から決して逃げない生き方をしているからこそ、
他人の責任を追及する資格を獲得できる。
全国一位の成績を修めたうえでなお親にブン殴られて、2週間メシを抜かれたことのある人だけが、僕を咎めればいい。