よくある問題だが、
「ひとり殺すか、ふたり殺すか」的な問題は、
条件がそれだけなら、ひとり殺すほうがマシ、という結論しか出ない。
まあ、正確な設問を書けば「救える命がひとつ、ふたつ、どちらのほうがよいか?」になるわけだがさ。
これは医学部受験を経験したことがある人なら、
誰もが小論文や面接対策で一度はやる話題なんだけどね。
介護の経験者でも、そういう究極の選択は経験したことがあるんじゃないだろうか。
そもそも、どっちみち殺すことしかできないのなら、あとは数の問題になる。
そして殺すことが悪だと思っているなら、数は少ないほうがいい。
別に殺すことが正しいとか、望んで殺したいとか、そんなことは誰も一言も言ってないからな。
・・・ここまでで異論はない、ものと思いたいけどね。
殺さずに済む可能性を探す! ←いやだからお前設問の条件読んで守れって・・・誰が「選んで殺せ」って聞いた?
だからもし、死刑囚と極悪人の二人と、恋人の一人なら、
殺すべきは二人であって、一人じゃない。
条件が「数と善悪」だけではなく「人間関係」や「命の価値」も追加された結果になるからだ。
まあ、異論はあるまい? え? 恋人を射ち落としたいって? はあ・・・ご自由にどうぞ。
じゃあ「親と恋人と子供、ひとりしか救えないなら誰を救うのか?」の三択にしたらどうなるか?
みんな大事で、みんな死なせたくないなら、僕は「残された人生が一番長い子供」を選ぶ。
その三択が「借金だらけなクソ親、世界中で大人気な美人女優の恋人、知的障害のある子供」だったら、
僕は「相対的な価値」を考えたうえで恋人を選ぶ。
「命の選別」は許されることなのか? もちろんYesだ。
お前の恋人を殺したクソ野郎と、お前の恋人とで、命が等価だとでも思うのか?
はあ、さいですか。
「悪法もまた法だ」っていうなら、お前がどのような理由で見殺しにされても、
「公共の福祉」の名のもとに、誰にも助けを求めずに、誰にも迷惑をかけずに死ねよ?
僕は絶対にイヤだけど。
「理性的であろうとすべき」であっても、
「感情を常に殺し続けるべき」とは誰も言ってないからな。
「譲れないライン」が人それぞれに異なっているとしても、僕はそのラインは絶対に譲らんよ。
自ら何かを諦めて我慢することはできても、
積極的に犠牲になれと、生命に関わるレベルで要求されるなら、最悪相手を殺してでも「お断り」する。
それが僕の独善であり、僕の理性であり、僕の人間性でもある。
またそれは法で許された権利でもある。
それゆえに、僕を罪に問える人間はいない。
少なくとも法で許された範囲である限り、僕は感情を捨てることはない。
感情を優先させないように取り計らう努力を、最大限、常時、実行し続けているというだけで。
「究極の二択」ってのは要するに、
生きることそのものの悪(動植物を殺して食べる、の類)に対する覚悟が決まっておらず、
合理的な判断の悪性と向き合えない愚者や臆病者だけが躊躇する行為なんだよね。
率直に申し上げれば、人の上に立って、逃げられない取捨選択を迫られるかもしれないと、
子供の頃から教育を受けてこなかった人種特有の、今更すぎる、くだらない、子供じみた話題なんだよね。
まともな教養層ならその種の問答、思考実験あるいは哲学について、きちんと教わって育つからな。
日本人は特に「正解のない問題」を意味もなくイジクリまわしてこだわりたがる傾向があるけど、
答えを出さなきゃいけないなら、答えを出すための判断基準を提示するのもまた、
子供に対する教育ってもんじゃないか?
それこそ「末期医療」のように、どうしようもない人たちってのは実在するんだから、
綺麗事を喋っても、彼らの苦しみは取り払えない。だからモルヒネを打ってでも生かす。
しょせん全ての判断はエゴであり独善にすぎないのだから、独善をいかにして振りかざすべきか、とな。
じゃあ、もっと比較の難しいものにしてみようか。
自然災害で死ぬ人の数が0になるかわりに殺人事件で10000人死ぬ国になるか、
殺人事件で死ぬ人の数が0になるかわりに自然災害で10000人死ぬ国になるか、なら?
僕は前者を選ぶ。
殺人事件は努力すれば減らせるが、自然災害は努力しても減らせないからな。
むしろ人力では不可避の自然災害を克服できるなら、
しょせん人力で行われる殺人事件を減らすことなんか簡単でしょうに。
つまりこの場合は、
人為と自然、どちらのほうがより抗えない「必然性」なのか、という問題であるわけだ。
「究極の選択」と呼ばれるもののほぼ全てには、
判断基準を示したうえで、なぜそれを選んだのかを説明する責務がある。
説明すら許されずただ選べという状況は、人生においてはほぼ絶対にありえないからだ。
僕は、人為より自然のほうが強大で恐ろしいものだと考える。
だから人為によって死ぬなら、人為によって救えるはずだと考える。
だから、どうせ死ぬなら、抗いやすいほうを選ぶ。
これも異論が出るとは思いたくないけどね・・・
え? 自然災害で亡くなった人の気持ちに配慮しろって?
知ったこっちゃねえよ、救えるか救えないか、できるかできないかの話しかしてねえんだから。
両方を選べないなら、
望まなかろうと選ぶことしかできないのなら、
なぜ選んだのかを言うまでだ。
しょせん人間に、それ以外の何ができる?
気持ちがどうのこうのって話をしていれば、そのうちどちらかを選べるのか?
10秒以内に選ばないとみんな死ぬ状況で、チンタラ話し合うのがそんなにも大事か?
そんなにも「何もせずにいる理由」を探したいのなら、誰とも会話せずに生きればいいじゃないか。
僕は「究極の選択」というものについて、
「自力で感情を麻痺させて正しい道をゆくための訓練」だという認識も持っている。
決してそれだけが認識の全てではないし、それこそが正解であり真実だと思ったこともないがな。
正しさというものが感情に逆らうなら、感情を麻痺させてでも正解を選ぶ必要がある。
科学技術に満ち溢れたこの時代にあって、
コンセント(正しくはプラグ)に濡れた手で触るなというのは常識にも満たない。
それは子供が相手だろうと厳命しなければ、子供が感電して死にかねないからな。
子供を自由に遊ばせてやりたいという感情があっても、
子供が感電死するリスクを回避することは、
その感情よりも優先されなければならない。
感情よりも絶対的に強い原理、物理法則や化学理論が存在するのなら、
感情よりも強いものを優先させなければ、自分が困って苦しむだけだ。
「自分を楽にするための方便」にすぎない「究極の選択」に、なぜ躊躇をする必要があるのだろうか?
考えることが大事? いいや違う。
迷わず明示し選ぶ、その速さと鮮やかさが大事なんだ。
考えるだけでいいならサルでもできる。考えるフリだけならガキでもできる。
大人がするべきことは、責任を負う者がとるべき道とは、何だ?
考えることではなく、選ぶことだ。
選ぶことしかできないのだから、なぜ選んだのかを明らかにすることだ。
たとえ選んだ道が正しくなかったとしても、なぜ選んだのかをきちんと主張し記録・記憶することだ。
ああ、例外もあるぞ?
究極の選択ゴッコで母親が出てきたのなら、僕は躊躇せず母親を殺す。
むろん、あの母親に肋骨24本中22本をヘシ折られる程度の虐待を受けて育ったから、だがね。