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1303、知識の「時間的な価値」について

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たとえば「ろうそくに火をつけて花火を楽しむ」という行為は、

なぜろうそくに火がつくと燃え続けるのか、なぜ花火は様々な色が出るのか、という、

身近ながらも科学的な理論を結晶化させた成果であるわけだ。

 

花火で遊ぶ側には炎色反応だの毛細管現象だのといったものを理解する必要がなくとも、

作る側にはそれを理解する必要がある。

しかしながら毛細管現象や炎色反応の理屈が解明されたのは、実は18世紀以降だったりする。

 

人類史の数千年の積み重ねを、200年ほど研究し続けた結果、

僕らは「花火とろうそく」を安全なものとして入手することができているわけだ。

 

 

 

・・・そこまで言えばわかってくれるだろうが、あえて言おうか。

 

「ひとつの知識」が完成するまでに費やした時間と人数を思えば、

バカにできるほどの知識というものは、想像以上に少ないのだとわかる。

 

 

 

たとえば僕は料理をするとき「猫の手」を使わない。

包丁をいくつも使い分けるのが面倒だし腕力も(多少の技術も)あるから、

だいたい何でも果物ナイフで切り刻んでしまうからだ。

 

そもそも「猫の手」は幅広な出刃包丁系であれば、

包丁の上下動のガイドとして丸めた左手を添えれば「手を切らないための工夫」として機能するけれども、

柳刃包丁や果物ナイフのような細身の包丁ではむしろ邪魔にしかならない。

 

だから寿司職人が魚の身を切るときには猫の手なんか使わない。

同様に、果物ナイフを常用する僕も、猫の手は使わない。

 

これは知識的にも理論的にも、少なくとも僕という個人が生きるうえでは完璧に正しい選択なので、

他人にオススメするのでない限り、むしろ最適な結果を見出したといえるわけだ。

 

しかし「猫の手を使わない奴は料理がヘタクソだ!」と決め付けるバカはいっこうに減らず、

柳刃包丁を使ったことがない、果物ナイフの使い方を想像することもできないとすぐバレるうえに、

上記のとおりの理屈でもってきっちり「論破」すると、だいたい屁理屈だと発狂してブチギレるから面白い。

 

 

 

かくして、ひとつの「結論としての知識」が完成するまでに要する過程が多種多様である限り、

どのようにしてその結論に至ったのかで、知識の中身の充実度や応用性が変わってきてしまう。

 

いわゆる「知識の有機的結合」だの「マインドマップ」だのと呼ばれるもので注目されつつある概念だが、

そんなものはバカではない人間なら、誰もが意識して練磨し続けてきた方法論や意識・態度でしかない。

 

 

 

「緊急時には騒がず冷静になれ」という知識だって、

自分が騒ぐと周囲も不安になり興奮し、周囲が騒ぐと自分も不安になり興奮し、

全体が冷静な判断よりもまず騒ぎ散らすことを優先してしまう、いわゆる群集心理に基づいている。

 

そしてそんなものは理屈で学んでも理解は難しいので、

大規模イベントで、人が大勢いるところに出向くのが一番いい。

できれば底辺、庶民、バカ、クソガキ、DQNなどが大勢いるような・・・渋谷のハロウィン的なものがいい。

 

理性的であろうとできない人種が集まると、面白いほど「典型的な」動きを示す。

そうやって「理論と傾向」の感覚を、現実に即して磨き続けることで、

「人間を見抜く」能力が培われていくわけだ。

 

そしてただ理解し確信するだけではなく、

いついかなる状況でもまず冷静になるクセをつけておき、

周囲を観察するためのガイドラインを設定し、毎日のように繰り返すことで、冷静さを取り戻し維持するのが容易になる。

 

よいことだろうが悪いことだろうが、何かが起きたときに焦ってもいいことは何もないので、

どうせなら仏頂面で、いつもと同じように、平常心で対処するほうがいい。

 

 

 

 

・・・・・その種の経験則や基礎認識の密度、

あるいは同じ知識でも、どうやってその結論に至ったのかという違いを複数知っているかどうかで、

ヒトの知性というものが問われる。

 

まあ、その道の専門家たる哲学者と称する人種は無駄に細かいところにこだわりまくるせいで、

科学が発達してしまった今となっては、その思索の大半が無駄ではあるけれども、

それでも「ヒト・クローン」に関する議論の場では、数千年かけて培われてきた哲学的手法が活躍している。

 

結果的に無駄になったものとて、完全に無駄だと断言できるケースは稀だ。

 

 

 

 

以上の理屈をもっと詳しく喋ってもいいんだがザクッと要約すればだな。

 

 

 

 

あなたが知っている知識は、

誰が、何時間、何日、何ヶ月、何年かけて結晶化させたものなのだろうか? とね。

 

自分で同じだけの苦労をしたいか? 僕は嫌だ。

だから知識と、その知識に至るまでの道筋としての理論は、いくらでも知っておくべきだと思っている。

 

せっかく先人が残してくれた知識なんだから、

若いうちから最大限活用すべきだとは思わんかね?

 

だから「勉強が嫌いで、やりたくなくても、やっておいたほうがいい」と言われるわけだ。

 

 

 

それでも知識なんかただ覚えるだけだと思っているアホは、

その知識を正しく使いこなすために、

より便利で効率的な、無意識レベルの反応に反映させ活用するために必要な努力の総量を知らない。

 

学歴や学識は人格の成熟度を示す指標ではないが、

その程度のことすら知らない愚物の人格が陶冶(とうや)されているとは、到底思えない。

 

 

 

ただの知識にすぎないが、

「知識の価値を軽んじる人間は、知識以外すら持っていない」

もんですよ、古今東西ね。

 

 

 

僕のことを勉強しかできないクズだと罵った連中は例外なく、

僕は勉強から遠ざかるほど得意なことが増える存在だということを知らなかった。

 

僕が「知識と理屈」以外の分野でこそ高く評価されてきた存在だということすらわからないほど、

知識も、見識も、洞察力も、観察眼も、ありゃしなかった。

 

 

 

だから僕は、ただ問題集を解いて慣れるだけの、

あるいは知識を何度も読み書き発音して覚える作業は自力でやろうぜと教えるのさ。

 

僕がいる間は「知ることは楽しい!」と思えるような何かを教えてやりたいから。

 

たとえ今はまだ「理解ができない道筋」でしか辿り着けない知識だろうと、

その知識に辿り着くためには勉強が必要なんだと、

感覚的に納得させてあげたいから。

 

「かわいい子には旅をさせよ」という格言の裏にあるはずの理屈は、

「経験を積むべきだ」という人生訓の根底にあるはずの理屈は、

「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」という、愚者が好む理屈と矛盾するものではないだろう?

 

 

 

歴史とは誰かが経験したオハナシにすぎないのだからな。

まさか二次元の美少女と脳内でイチャコラしたことを歴史とは呼ぶまい?

だが共産主義者に「戦争は悪だ!」と刷り込まれたテメェの脳内妄想は歴史(笑)なんだろう?

 

悪いのは戦争ではなく、大日本帝国でもなく、

太平洋に進出するために日米離間戦争を煽ったソ連と共産主義なんだというただの知識を、

お前は決して理解することができないだろう?

 

悪いのは戦争じゃなくて侵略なんだよ。

日本は欧米列強によるアジア・アフリカへの侵略からアジアを開放したと、

少なくとも日本の旧植民地諸国はそう述べているのだぜ?

 

戦争は手段にすぎない。包丁は刺殺事件の手段にすぎない。

手段そのものに善悪はない。

善悪があるとすれば、何らかの手段を用いて、何らかの「有害な結末を齎さんとした連中の意思」だけだ。

 

ただ冷静で公平な議論をしているだけの連中を脊髄反射でネトウヨ呼ばわりするのは、

自分たちこそが「他人を右翼呼ばわりすることで得をする価値観」に基づき行動していることの証でしかないように。

 

 

 

かような理屈に基づき、僕は勉強が嫌いだし、苦手だし、やりたくない。

 

少なくとも僕という人間が生きていくうえで、

たったひとつの知識が完成するまでに必要な労力が、

普通の人の何十倍も、何百倍も多いことを知っているからだ。

 

そのぶん、ひとつの知識が完成するまでに詰め込まれた労力に見合っただけの知性を有していると、

まあ、「普通の人」からは評価されているような気がしなくもないがね。

 

 

 

他人の受け売りだけで生きていると薄っぺらい人間にしかなれない理由がそこにある。

 

自分の心身になじんだ、使いこなせる知識や理屈じゃないから、すぐに破綻する。

総じて女や、跳ねっ返り自慢したがるお年頃の若者に見られる傾向だ。

 

あとは立場に見合った実力や「責任を負う能力」を持っていない、長く生きただけの老害もそうなりやすいかな。

 

そして使いこなすことにだけ耽溺しているバカほど、

使いこなすことの重要性を叫ぶことしかしなくなり、

そもそもの知識を増やす努力からは早々に逃げ去る。

 

だから自称知識人、自称識者が何人集まっても、ものごとが改善されることは絶対にないのさ。

 

「自分はバカじゃない」と言い張るための理論武装が上手な無能・・・のことだからね、知識人だの教養人だのって人種は。

 

 

 

 

知識の正しさを支えるための理論武装を1パターン用意しただけで満足しているバカは、

高卒にすぎない僕にすら満たない。

 

賢さは、ひとつの結論に至るまでの道筋の数・・・だとは限らんが、

まあ、そういう賢さの測り方もある、程度のオハナシとしてね。

 

 

 

 

え? そんなことを考えて何になるんだって?

 

じゃあ、そこで表題に戻ろうじゃないか。

ひとつの知識の、時間的な価値について。

 

この駄文を読むのに費やした時間と、この駄文の価値は、ナンボのものなのかと。

 

 

 

 

・・・・全部書くと誰も読まないのは知ってるから超絶雑にザクザクと省略するのに慣れてきたが、

それゆえに駄文。

 

書いても読まず、省けば書けと言われるこの現実よ。


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