前者は、実は完全な煽り文句ではないんだよな。
たとえば親子の仲がよくて、しかも親が裕福で、
実家暮らしをしているから貯金もできるし、結婚したら親が庭に建てた離れに引っ込んで・・・という、
そうそうありえる話ではないがそんな理想的な状況であれば、昔から使ってる部屋=子供部屋に定着する可能性はある。
簡単に言うと、状況によっては子供部屋を一生使い続けられることほどの幸せはない、ということだ。
親が裕福で、土地と建物があってナンボという大前提だから、
大半の庶民には想像すらできないのだろうが。
少なくとも僕の姉と妹はそれぞれ12畳の子供部屋を持っていたからな。旅館の一室レベルの広さ。
そもそも12畳の部屋が複数ある家って時点で珍しいかもしれないが、
12畳の自室を使い続けられる幸せって、そんなに転がっていないような気がするんだけどな、僕は。
まあいい。
Q:お前の部屋はなかったのか?
A:僕の部屋は6畳で物置も兼ねていた。察しろ。
ところがどっこい、
「子供部屋未使用おばさん」は超高純度な煽り文句で、単純に考えてみっつの意味がある。
「不妊のせいで子供ができなかったから建てた家の子供部屋が無駄になった」という意味と、
「そもそも結婚できなかったから子供もおらず子供部屋を使うかどうか以前の問題」という意味と、
「虐待や貧乏のせいで子供部屋を使ったことがない」という意味と。
・・・まあ、一番やべぇのは最初の意味だわさ。
こどおじコドオジとうるせぇゴミクズどもですら、「子供部屋未使用おばさん」とは煽らないからね。
いつも思うことなんだけど、
他人がどんな生き方してようが、心底どうでもよくないか?
僕はお金持ちで高学歴な両親のもとで、五体満足なばかりか高い知能を持って生まれて、
18歳で他人を庇って事故に遭うまでは順風満帆だったわけだが、今はこうして社会の最底辺だ。
とはいえ、他人が裕福だろうが貧乏だろうが子供部屋ナンチャラだろうが、
それが自分に何か関係があるのか?
貧乏ならお金がなくてできないことがある、裕福なら選択肢は増える、僕はどちらも体験した。
だがいついかなる状況だろうと、今の自分にできること以外は、絶対にできない。
自分にできることをして、自分を成長させること以外に、人生ですべきことって、あるのか?
自分の夫や妻がどれだけ優れた存在であろうと、自分の価値は何も変わらないぜ?
装飾品だろうが化粧だろうが何だろうが、自分の皮膚より下にあるものの価値は何も変わらない。
無論、どこに住んでようが、どう暮らしていようがだ。
品性だの、育ちだの、言葉遣いだの、マナーだの、
自分のそれを気にするのはまだわかるけど、
他人のそれを気にするってのは、僕には想像すらできない次元で「下種」だと思う。
「山頂から見れば自分の周囲は全て自分より低い」のと同じで、
高い場所にいる人ほど、自分が高いことは疑いようもないから、
自分がどの程度の存在であるのかなんて、自然と気にしなくなるんだわ。
「いつでも何でも1番」だった僕から見れば、
自分以外は全員自分未満なわけだから、
他人の無能さや無学さや未熟さに怒る気なんか欠片も残ってないのと同じことだ。
ただ、それが何であるのかを正しく理解・・・はできないから、
せめて調査し推定・研究したうえで配慮をしなければ、
普通の人とは会話なんか成立しないからね。
Q:お前も他人の品性を気にしてるじゃねーか!
A:お前らのチンケなプライドを傷つけないために、想像すら及ばないお前らのゲスさクズさアホさを知る必要があるんだ。