ウダウダ喋ると超絶長くなるから簡潔にいこう。
まあ、僕は生粋のエロゲーマーであり、アニメオタクでも何でもないんだけどな。
日本のアニメはかつてjapanimationと呼ばれていたが、
現在ではanime(JPN)とcartoon(etc.)という区別がなされている。
少なくとも「日本と日本以外」という区別がなされるほど、日本のアニメは特徴的であるというわけだ。
ではなぜそうなったのか?
これには日本だけがもつ歴史が関係している。
簡潔に結論だけを言うなら、
日本だけが欧米人の侵略に抗い勝利し、
かつ原爆と空襲によって全てを破壊されるというふたつの経験を持っているからだ。
それゆえに日本の特撮、あるいはスーパーロボットもののアニメには、
「巨大な侵略者」「敵性異星人」というお約束がいくつも盛り込まれている。
この、「誰からみても明確な巨悪」というモチーフを描く能力は、日本人の得意とするものだ。
これは侵略された恐怖や、声に出さないだけで決して消えない憎悪が根底にあるからこそ可能な芸当であり、
また同時に、旧植民地から今なお感謝され続けている唯一の、「平等」の担い手であったからこそ可能な芸当でもある。
しかし欧米人は常に侵略者側であったため、
コミンテルンやナチスの残党、さもなくば軍や製薬会社といった、
「白人どうしの内ゲバ」ばかりを描くことしかできないでいる。
そうでなくとも近年における欧米の創作物では、
黒人たちが悪の結社を作り、それを白人たちが阻止する、という描写ができない。
それは黒人差別に当該するということになってしまっているからだ。
必定、アジア系組織だろうが欧米の宗教結社だろうが軍事関連企業だろうが、
あるいは日本の旧華族だろうが旧士族だろうが、
何を悪役にしても明確な善悪を描いて許されるだけの下地が整っているのは、そもそも日本くらいである。
日本の創作物は平等なのだ。それ以上に明確なのだ。
確かに、欧米の創作物でも、善悪そのものは明確だ。
しかし「綺麗事を言っていられない悪」と「綺麗事を守ろうとする善」という構図があるだけで、
結局のところ、それらを解決するのは暴力と銃弾、圧倒的な財力と技術力だ。
だが日本の創作物はそうじゃない。
所詮はモテない、運動も勉強もできないオタクの妄想にすぎないと軽侮され続ける反面で、
力なき庶民たちが本当に待ち望んでいるものは、果たしてどちらなのか?
お小遣いのように天から与えられただけの傑出した救い手ではなく、
自分だけでも、理不尽に屈することなく自由に生きられるようになれたらいいなと、
誰もが心の底では願っているからこそ、日本のアニメは愛される。
近年でこそ傾向は変化しつつあるものの、大原則は変わらない。
英雄が圧倒的な暴力で国を守るのは大切なことかもしれないが、
本当に庶民が望んでいるものは、
できることなら自分だって強くなりたかったし、強くありたいんだという「可能性」にすぎない。
日本のアニメは欧米の創作物とは異なり、
「英雄という別ジャンルの存在に変貌」することなく、
「庶民が庶民のまま力を手にする」という形で描かれるものが多い。
英雄ならではの、しょせんは他人事にしか思えない苦悩の客観的描写よりも、
弱者たる自分が手にした力の使いどころやその限界に苦しみ悩むほうが、
庶民としては主観的に観測できるぶん、登場人物に入り込みやすいのだ。
これは所詮、陸続きな隣国と殺し合い続けてきた人たちにはわからない感情だ。
仲間どうしで守りあわないと、他国から殺されるだけだったからこそ、
彼らは共通の価値観、あるいは宗教、ないし民族という拠り所を必要としている。
しかし日本では、天皇という共通の拠り所が存在する。
海という天然の防壁が、中国や韓国や北朝鮮のような、反日敵性国家からの侵略を防いでくれている。
だから日本人は、あるいは日本のアニメや創作物は、
いちいち仲間・同胞との結束をアピールすることなく、
個人の独善にすぎずとも、正義を執行することが可能になる。
この「個人レベルで明確な正義を執行する」という、
字面だけ見れば独裁者にしか見えないお話が、
結局のところ、力なき庶民には、何よりも得がたい理想のひとつなのだ。
いかなる背景事情があろうと、それが「絶対に」間違っているのなら、
組織や国家とは関係なく、個人レベルで対処したいと、本当ならば誰もが願っているし、
そう願うことに何の躊躇も必要ない。
そして何よりも、日本には独自の伝統と文化がある。
剣術の流派と型の多様性を現代まで守り続けた国は日本だけであり、
中国は文化大革命や大躍進政策で、自ら破壊してしまった。
欧米では貴族たちの娯楽として細々と続いてきただけで、何一つとして伝統を守るという発想を持たなかった。
だから、日本人はブロードソードだけではなく日本刀という選択肢を持ち、
騎士ではなく忍者や侍という選択肢を持ち、
「神と魔法」ではなく忍術や妖術や陰陽術という選択肢も持つ。
洋弓ではなく和弓、ドレスではなく着物、ブーツではなく草履。
釘を使わない木造建築でもいいし、打ちっぱなしのコンクリートジャングルでもいい。
そういった多様性が当たり前のように共存している国は、この世界には日本くらいしか現存していない。
だから日本の作品には、何がどのように登場してもいい。
宗教的な縛りもなければ、巴御前のように数こそ少ないものの、女の英傑も存在する。
しかし男尊女卑の本場である欧米では、女を強いものとして描くことに不自然さだけが伴う。
何はともあれ、欧米人の作品には自由さが欠落しているのだ。
そもそも欧米でいう映画やアニメは、
西側諸国と白人様の正義を宣伝するための媒体にすぎなかった。
だからこそ今でもその性質は拭い去れていないし、日増しに政治色ばかりが濃くなり続けている。
しかし日本で作られたアニメは、
それを作りたいと願う人たちによって作られた。
いわば欧米のような官製品ではなく、高純度な民生品なのだ。
最近でこそ、企業色や政治色を露骨に持ち込もうとするクズどもが増えつつあるが、
それでも日本のアニメは、本当の意味での、力なき庶民たちの願いが詰まったものだ。
『進撃の巨人』の元ネタになったのが『マブラヴ・オルタネイティブ』であるように、
政治だの国家だの宗教だの企業だのではなく、あくまでも個人が、現実を、未来を変えていく。
「なろう系」がなぜ、日本人モドキ諸君が怒鳴り散らすほどの不評を買わないのか?
誰もが一度はアンパンマンや仮面ライダーなどに憧れるように、
自分という個人が強くなり正しいことを行う可能性を夢見ない人間なんか、いるわけがない。
最も原始的で、最も本質的で、最も根源的な欲求の塊なのだよ、日本のアニメというものは。
Q:それ以外のジャンルのアニメを見てないの?
A:多種多様すぎて語りきれないだけだ。まさかお前、触手陵辱もののアニメでも語りてえのか?