人類の歴史において、特にこの半世紀ほどで「文明化」が急激に進み、
それにともなって、数多くの「現代的な言葉・表現」が増えた。
特に目立つようになったのは科学文明や機械に対する批判・風刺であり、
人間の心、人間らしさが機械によって奪われてしまう、とする風潮・論調である。
しかしながら、伝統工芸を支えているのは、機械によって整備された道路と、機械によって効率化されている物流だ。
そもそも食べ物を生産する農業自体が、化学合成された肥料と、農業用機械で劇的に効率化されているというのに。
漁船に使われているモーターや魚群探知機、あるいは漁港の冷凍設備だって、科学文明の恩恵そのものだ。
またAI(人工知能)が進化することで、人間がAIに支配されてしまう、という論調も出始めて久しいが、
「電源プラグを抜けば機械は止まる」という当たり前なことが理解できていないのか、
彼らは明らかに、機械化・文明化を批判する自分に酔っている。
そんな詩的表現を好む彼らに共通しているのは、明言こそしていないだけで、
天皇・自民党・アベ・ネトウヨ・米軍・自国民中心主義・日本を肯定し賞賛する発言の全てを嫌っていること。
要するに、文壇や報道の権威化と支配を目論んできた、共産主義者たちである。
それを裏付けることは容易だ。
そもそも労働から解放されるための機械化なのであって、
労働者がいなくなって機械化が進んでしまうと、
労働三権の名のもとに暴力革命を企てることができなくなってしまう・・・のが、共産主義者としては嫌なわけだ。
サボりまくっているくせに労働者を名乗り、被害者ヅラをし、機械化は悪だ危険だと罵るクチで、
パソコンを使って文章を書き、印刷機を使って新聞や雑誌で発表し、インターネットを介して世界中に発信する。
自分の思い出や顔写真はカメラで撮影し、SNSで共有しているのにもかかわらず、だ。
そもそも共産主義者たちの年齢が上がってきた今において、
誰よりも機械と文明(医療・福祉)の恩恵を受けるのが、若さを失った自分たちであるわけだから、
今更人間性云々言ってるヒマがあれば、衰えた自分でも楽に暮らせるバリアフリーなエレベーターを使うわけで。
機械のおかげでどれだけ便利になったのかという発想が欠落したまま、
労働者たちこそが苦役と労働からの解放を誰よりも望んできたという原点すら見失った以上、
もはや共産主義者たちに残されているのは、暴力革命によって俺が王様になるんだという破壊衝動だけである。
AIの進化によって「機械には心が宿らない」という固定観念すら崩れつつある今において、
「ペットが死ぬときに体にくくりつけておくとペットの魂が乗り移ってコミュニケーションが取れるようになる機械」
といった、機械が人間の心に癒し・救い・潤いを与えてくれる可能性は、もっとたくさん見出されてもいいはずなのに。
「詩的表現」は、機械に対して多くの可能性を与える発想を嫌う。
機械には魂が宿らないという大前提に基づき、
そんな機能はないはずなのに目から水が出てくる、などという描写を好む。
機械は人間に支配されていてカワイソウだという発想もまた、
階級闘争の対立構造を生み出すために用いられ続け、
いわゆる「ディストピアもの」も粗製乱造の憂き目に遭い、陳腐化して久しい。
そもそも共産主義者こそが、
自分たち自称知的エリートたる支配階級による徹底した管理社会による平等の実現=ディストピアを目指しているのに、
ディストピアを否定しなければならないのは、もはや建前ですらなくなった「労働者の味方」という綺麗事の名残か。
心を持った災害救助用ロボットが被災者を救い、自分の存在意義を肯定できた喜びを感じる
・・・といった、幸福や肯定的な可能性だけを、意図的に排除している。
古典的名作ゲーム『ロックマン』の頃から存在したものを、未だに否定し続けている。
機械と科学文明の価値や魅力を誰よりも躍起になって否定したがるくせに、
かくいう愚劣で非力で無能な自分こそが、誰よりも機械と科学文明の恩恵を受けている。
そんな連中ほど、機械化が進むと人間の心ガーなどと言い放つのだから、滑稽を通り越して不気味ですらある。
なぜ機械化によって、誰もがより一層幸せになれるかもしれない未来を望まない?
なぜそのような作品だけが、いつまでたっても増えない?
これだけ機械頼みな社会が成立している現在にあってもなお、
機械化や文明化に対する批判ばかりが噴出し続けるのは、どう考えても不自然だ。
日本においては、文壇が共産主義に汚染されて久しい。
そんな時代に、ノーベル委員会の連中はかつて、大きな失敗をした。
中国の原爆キノコ雲を「美しい」と表現するキチガイ共産主義者こと大江健三郎に、ノーベル文学賞を与えてしまった。
案の定、ノーベル文学賞受賞者という権威を使って、共産主義的反日プロパガンダを絶叫し続けて今に至る。
その失敗があってからというものの、ノーベル文学賞は、死にかけの老人か故人に与えられるようになった。
自分たちの与えた賞が、人類史上最も多くの人間を虐殺した共産主義に利用されてはならないからだ。
まあ、ノーベルさん自体が爆弾屋だから、お前のせいで何人死んだと思ってるんだという話ではあるんだがね。
いずれにせよ、中国様のことなら原爆キノコ雲であっても礼賛するような輩を、
文壇の連中は礼賛し、権威化し続けているのだから、
もはや健全な自浄作用など望むべくもない。
かつて「金原ひとみと綿矢りさが女性でしかも最年少で芥川賞をダブル受賞!」などと言い始めたときに、
ああ、今、日本の文学は死んだんだな、と確信したが、
同じ思いを抱いた人は多いのではないだろうか?
そもそも最年少受賞記録なんて1つずつ下げていけば、いずれ不自然なほど低い数値が最年少記録になるだけだ。
つまり、先々のことまで考えていけば、軽々に最年少記録なんて作るべきではないはずなのだ。
明確な勝敗・優劣がつく、特定のルールに基づく実力ではなく、他者からの評価という曖昧な指標が前提ならば尚更だ。
ましてや優れた文筆家には、年齢も性別も人種も国籍も肌の色も関係などないはずだ。
そこにきて女性ガーと言い始めたのだから、ああ、実力以外で評価されたんだな、と誰もが思う。
黒人ガーとかLGBTガーとか言い始めたら、実力以外で決めましたと言っているのと同じだと、なぜ気づけないのか。
娯楽の多様化に伴い、文章と文字だけで表現する詩や小説は、それ自体の魅力が薄れつつある。
そのためメディアミックス、映画化、ドラマ化、あるいはアニメ化、漫画化、表紙の絵に有名漫画家を起用するなど、
あの手この手で「文章以外の魅力」を主張しようとしているようだが、もはや手遅れだ。
本当に文章を愛する人なら、そういった雑多な情報こそ、むしろ余計だと考える。
安易な人気取りに走った時点で、文章そのものの魅力では勝てないと、敗北宣言をしたも同然だ、と。
挙句話題づくりのために女性が!最年少が!同時に!などと言い始めたのだから、
それまで「テレビ報道的には」一切注目されていなかった芥川賞の話題が急に目立つようになった以上、
芥川や夏目や森といった「魅力的な文章」という建前ですら、大勢の心には届いていなかったという実態が露呈した。
もし文壇が、あるいは文学が、詩的表現や小説などが、本当に多くの人に愛されていたのなら、
1990年代から続く「出版不況」と呼ばれる、特にここ10年くらいは顕著な低迷ぶりには説明がつかない。
電子書籍すら浸透している時代なのに、なぜ文学作品はそっぽを向かれるようになったのか?
そもそも小説家や文筆家は常人よりも博識だという謎の風潮があるが、
それは博識な人もいるというだけで、博識であるというだけなら、それは医者や研究者でもいいはずだ。
なのになぜか「文章表現のプロだから」という理由で、その知性に全幅の信頼を置け、という同調圧力がかかる。
かつて吉田清治という共産主義者が妄想私小説の中で捏造した「従軍慰安婦」のせいで、
全ての日本人が多大な名誉毀損を被ったというのに、
文筆家の知性に信頼など置けるはずもないし、文壇が共産主義に汚辱されているのは自明の理だ。
なのに「出版不況のせいで正確な知識の継承が妨げられる」などと大嘘をぶっこいているのだから、
詩的表現を愛好する連中が、一貫して機械化や管理社会化を否定・批判することしかできない発想の貧困こそ、
正確な知識はおろか、十分な学習すら足りていない結果なのだろうと、そう考えるほうが自然ではなかろうか?
それでも僕はロマンを愛する人間だから、叶いっこない夢を見るのは大好きだ。
それでもロマンを叶えたいと思うのなら、必ず現実に立脚「させる」。
それゆえに、蓄電池機能を持たせなければ落雷や漏電などで停電しただけで機能停止する程度の機械に、
侵略されたり人間らしさを奪われたりするという被害妄想を抱く連中なんて、
もはや同じヒトとしては認識ができない。奴らは文明社会の何を、科学理論の何を知っているというのか。
本来なら詩的表現には何の束縛もないはずなのに、「彼ら」のオツムの中には、明確な傾向と特徴がある。
それが共産主義的な視野狭窄状態とほぼ完全に一致し、
共産主義者らしい無知と無学に立脚している以上、賢い人ほど小説を読まなくなるし、本の情報をも疑うようになる。
少なくとも僕程度の知性でさえ、本屋に並んでいる本の半分以上にウソがあると見抜けるからな。
賛否両論があって確定したわけでもない話の片方だけを紹介しているものや、
異なる目的で調査されたデータから都合のいい要素だけ抽出しているものが、あまりにも多すぎる。
「女性の正規雇用率が高い国ほど出生率が上がっている!」などと豪語しつつ、
少子化を止められる水準まで回復した事実は一切ないし、
女性の正規雇用率が低い発展途上国のほうが2倍も3倍も出生率が高い事実を意図的に無視するかのように。
そもそも「機械には魂が宿らない」という、もはや浸透しすぎて疑うことすら忘れがちな認識でさえ、
「機械は細胞分裂をして自己増殖や生殖をしないから、生きているとは定義できない」という、
生命とは何なのかという科学哲学的な議論が前提にあるのに、科学哲学の話題は一切出てこない。
そればかりか「詩的表現なんだから無粋な突っ込みを入れるな!」などと言い放つからな・・・
科学理論や先人たちの思索に立脚している固定観念や定説を再検証することすら許さず、
自分の価値観だけを絶対視して他人に押し付けるとは。
詩的表現と称して何を喋るのも勝手だが、お前個人の愚劣さに付き合ってやる義理はないぞ?
大前提として一定の陳腐さを認めなければロマンなど語れはしないのに、
誰もが共有しているはずの陳腐さに言及されたら発狂をするのは、もはや狂信者やテロリストの類だ。
そして実際、文壇は、共産主義者という名のテロリストたちに汚辱されてしまった。
もはや風刺と罵倒の区別もつかない連中が、ただの侮辱表現のことを風刺だ批判だと言い逃れをしているが、
立憲民主党の週4不倫セックスおばさんの「日本死ね」発言の、どこがどう風刺なんだ?
韓国死ねとか、中国死ねとか書いたら発狂するくせに。
頭が悪い人は、詩的表現を好む。
表現の自由を叫ぶクチで、他者の自由を撲殺して回る、生粋の知的テロリストだ。
奴らは都合の悪い相手に「反知性主義」というレッテルを貼ることを好むが、
そもそも反知性主義とは、エリート主義や権威主義に対する批判のことを指すため、
単純に愚劣で無学であるさまを表現した言葉ではない。
つまり既存の、中国様の原爆キノコ雲を礼賛するような固定観念に対する批判こそが、反知性主義なのであって。
反知性主義という言葉の正しい使い方すら知らない、
天皇とアベとネトウヨと自民党のことが大嫌いな連中こそが、
その、自ら怒鳴り散らしている、間違った意味での反知性主義に染まっているのは明らかだ。
詩的表現を好むから頭が悪くなるのか、それとも頭が悪いから詩的表現を好きになるのか?
劣等感まみれな現実から逃げることでしか、共産主義だの博愛だのフェミニズムだのは叫べないからな。
努力も自己批判もできない自分たちが何ゆえに他人から必要とされないのか、認めるわけにはいかないからな。
ロマンや詩的表現は、断じて、貴様ら無能どもの駆け込み寺ではない。
まあ、それでも電力供給が不可能な状態になったら、機械に頼りすぎている人ほど、酷い反動がくるだろうけどね。
だがもし本当に、広域的に、あるいは全世界的にそんな状況に陥ったら、
共産主義だの暴力革命だのを訴えている奴らこそ「何無駄に言い争ってんだマヌケ」と殴られるのは目に見えている。
薄氷の上にいるのが事実であったとしても、選んだ方向にしか進めないのだから。
必要もなく停滞したいなら、中国様とロシア様に核兵器の維持管理をやめて自然に還ろうと提言してくればいい。
そんな機械化文明を捨てて、人間らしい心を持とう、とな。
何億人も虐殺してきてなお善人ヅラをキメる、人でなしの共産主義者たちに、それができるとは思えないけど。