オープンワールドのいいところ・・・って、あんまりないと思っている。
たとえばサハラ砂漠は東西およそ5000kmあって、実際には小さな砂丘や窪地や岩場が無数にある。
それに対して人間の歩く速さはおよそ時速4km程度だ。
砂漠を歩く速さは、砂に足を取られて減速することやアップダウンを計算に入れて時速2kmと仮定する。
それをゲーム内のオープンワールドでリアルに再現されたら2500時間歩き続ける必要がある。
だからゲームにおいては、必要な場所だけ描写されるほうが楽だと思っている。
ドラクエのようなデフォルメ地形とか、モンハンの狩場マップとか、アーマードコアのミッションマップとか。
世界樹の迷宮シリーズのように移動先を選んで一枚絵背景と必要機能だけがある街や、
いわゆるファストトラベルシステムは、最終的にはそれくらいじゃないと時間がかかって苦痛でしょうがなくなることを、
ただ馬鹿正直かつ律儀にオープンワールドにしただけのゲームをやって学んだという人は多いだろう。
今何をやっているのかがわからなくなるから、ミッション・ストーリー進行一覧というコマンドもできた。
イベントが発生したら行き先にアイコンが出るようになった。
ストーリーイベントアイコン、キャラクターイベントアイコン、イベントバトルアイコンの表記だって違うことがある。
まあ要するにさ。
ファストトラベルに代表される手間短縮機能があるんだったら、それが超親切であるなら、
オープンワールドでもいいと思うんだよな。
ミニマップにイベントアイコン出して、どっち行けばいいか必ずわかるようにしてくれるなら。
わざわざマップの端から端まで歩かされたいか?
DYSMANTLEの記事↓でも書いたことだけどさ。
https://ameblo.jp/ii-otoko/entry-12734268758.html
二度も三度も往復させられたくないから、一度の探索で全部回収したい。
一度の念入りな探索で全部見て回るから、後から戻って回収し直すのは嫌だ。
じっくり見るから、そのときに風景は楽しむ。何度も、ずっと、同じ風景ばかり見たくない。
いわゆるマッパー(地図を埋めるプレイ、全ての場所に一度は踏み入って探索して遊ぶゲーマー)側の人間だからこそ、
オープンワールドって「ただ広いだけ」にしか思えないんだよな。
リアル登山なんて4000m級になったら雪は降るわ空気は薄いわ森林限界があって風景がヒマだわで・・・ねえ?
じゃあ雪嶺があるから5000m級の山脈越えだなんて、オープンワールドでやりたいか?
FF10のガガゼト山くらい適当な雪山登山でいいんだよ、ストーリー上の一本道は嫌だけど。
「全域を歩けるマップ」は開発側の趣味程度にひとつふたつあれば十分なんだ。
そのゲームを象徴するような雰囲気の、しかし全部を歩きまわらなくてもいい、本当に趣味程度のものがさ。
人間には想像力があるっていうか、想像力を阻害するほどのリアリティはかえって辛いっていうか。
個人的にはいわゆる「拠点」でそういうのを凝ってくれるだけで十分だ。
それですら内部で起きるイベントで何度も往復させられなくて済むように、
ファストトラベルならぬクイックコマンド・クイックイベント機能が欲しいわけだがさ。
ゲーム内で1日経過したら入浴や食事や排泄は済ませたものと勝手に想像するから、
そんなものを律儀に描写してくれなくてもいいってのと同じ。
仮想空間だからこそ物理的・時間的・空間的制約を超越できるのに、
なんでわざわざ物理的・時間的・空間的制約を厳しいほうに持っていくんだろうかね?
アーマードコアの面白かったところって「多くを語らないこと」=妄想の余地が大きかったこと
・・・では、ないんだよな。
レイヴンという名の傭兵目線で依頼をこなしているだけなのに、
その依頼の内容や漏れ聞こえるわずかな会話や情報の授受から、
自分が今どのような趨勢の中にあるのかを察して取るのが面白かった。
傭兵をやってるだけなのに気づけば流れのど真ん中にいて、
自分の動向が全域に大きく影響し、物語の結末を左右する。
エロゲーでもよくあるやつ、まさに「主人公」。それが「アーマードコアのレイヴン」だった。
あの世界じゃガレージも拠点もよくわからない。
ショップと流通システムもよくわからない。
ミッションマップから輸送機だの空港だのを見て察して想像するしかない。
狭いからこそ、限られているからこそ、その中にある情報を少しでも多く得ようとする。
オープンワールドだと最終的にはただ流してしまうだけの風景に、
何か意味があるのかもしれないと必死に食らいつく。
広い場所で探索を強いられるのではなく、狭いはずなのにしなくてもいい探索をやりたくなる。
それが「ゲーム」だと思うんだよね。
バイオハザード(というかスウィートホームの系譜)がウケた理由ってまさにそれでしょ?
クソ広いマップを無秩序に歩いて総当りするのではなく、局所的な注目とパズルで探索を代替させる。
いまや謎解きのないホラーは駄作だという風潮すらあるけれど、
オープンワールドとホラーって、まさに相性が最悪だからね。
どこまでも行けるならさっさと逃げろよって話だから。
舞台を制限するから面白くなるのがホラーゲームだ。
無人島、僻地、荒野のど真ん中にある古い屋敷跡や遺跡など。
電波は届かないし、なぜか自動車は故障するし、嵐で数日間航行不能になるし。
自由度が足りないからこそ魅力的になるのが、アーマードコアと、ホラーゲーム。
オープンワールドって、せいぜいスーファミレベルだったからこそ楽しめたモンだと思うのよね。
容量が足りなかったからこそ切り詰められて、狭い中で工夫をするから面白かった。
ひたすら広いだけになったら、地平線の果てまで何もない荒野を馬で走って移動することになる。
操作キャラがせいぜい30分も走れば端から端まで移動できる広さの国なんて実際にあったらクソ狭いわけだけど、
ゲームとして30分も移動させられるなら、それはもう十分すぎる。
・・・いつまで西洋文化礼賛やってんだろうな、オープンワールド信者って。
スーファミの初期に『ドラッケン』ってゲームがあったけど、
あれもごく古いタイプのオープンワールドだった。
スーファミ初のRPGでもあったけど。
容量が足りなかったからだだっ広くて何もないフィールドを、たくさん移動してる感を出すために何往復もする。
もう30年も前のゲームだから、当時としては斬新な試みではあった。
でもなぜそういうゲームが主流にならなかったのか? そういうこと、だよね。
ゲームは仮想空間だから、仮想現実だから面白い。
アニメも、漫画も、ゲームも。
快楽を抉り出すタイプの空想なんて、オマケ程度でいいんだよ。
そんなところにまで不便さや不快感という名のリアリティは要らないんだよ。
だから名作()オープンワールドゲームのほぼ全てにファストトラベル機能がついている。
誰だって、律儀にあんなもんを100回も200回も往復させられたくないからだ。
ゲームにあるべき不便さや不快感ってのは、アーマードコアみたいなやつを言う。
のだと、少なくとも僕は思っている。
よく見ればそれらしき手がかりはあるけど確証がない。
でもエピソードAと背景BとセリフCを組み合わせると、裏事情Dがあったんじゃないかと推測できる。
裏事情Dがあったと仮定すれば結末Eや次のエピソードFにも説得力が出る。
まあもちろん作ったことがある人種として知ってることだけど、それを意識して作り上げるのは非常に面倒なんだけどね。
明確な世界観(←この単語の意味がまずアレなんだけど)を共有する人間同士によって、
「この状況のあいつならきっとこうするはず」というものを、各々が勝手に想像しつつ散りばめられたゲームは、
どれだけ手がかりが少なくても、全体の指し示す結末は同じであるわけで。
最終的に敗戦するとわかっているから太平洋戦争は無駄だったと、結果がわかっているからこそ言える。
でも実際に戦っていた当時は、守るために戦わなければ奴隷として殺されるだけだったわけで。
・・・まあ、古いタイプのゲームの楽しみ方だよね。
登場人物になりきるのですらない。
登場人物が自分とは明確に異なる存在だからこそ、こいつはどんな人物像なんだろうとあれこれ想像する。
想像するうちに、そのゲームのテーマ性や、キャラの置かれている状況が見えてくる。
原義としてのロールプレイング・ゲーム。
「無名のone of themが英雄になるまでの物語」という点ではドラクエ3があったわけだが、
あれだって結局は勇者親子の物語だから、純粋に無名であったとはいいきれない。
それでも勇者とともに戦った英雄たちは、まぎれもなくone of themであった。
主要人物以外の描写が極端に薄いドラクエは、だからこそ妄想が捗ったわけである。
「こんぼう返せ、けいこぎ返せ」「船はいらない娘をよこせ」「ネネさんの転売術」などまあ、色々あったもんさ。
あれくらい薄くていいんだよな、ゲームって。
「膨大な情報や映像が全て盛り込まれて、その中から必要なものだけ探せ」ってのも嫌いじゃないけどね。
嫌いじゃないけど、気に入ったゲームでしかそういうことをやろうとは思えない。
変な話だけど、時間を潰すための娯楽であるはずのゲームに、そんな時間をとっていられないから。
贅沢なのよ、つまり、このブログ記事そのものも。