とても簡単に見抜ける方法、誰でもなんとなくわかる方法から紹介するなら、
たとえば「呼吸のリズムがおかしい奴はやばい」。
呼吸を観察するだけで結構色々なことがわかったりするものだ、ということ。
運動してるわけでもないのに常時ハァハァと荒い息で過ごしてる人は、
病気か何かなのかと心配になったり、
何かしら興奮でもしてるのかと気持ち悪く感じたりするだろう?
まあ、医学の知識もない人が呼吸の荒さに気づいたところで、
それ以上の何かがわかるわけではないのだが、
それでも「確実な違和感」として、わからなくもないだろう。
ちなみに「ため息をつくと幸せが逃げていく」は大嘘である。
人体は息を吐いた状態が緊張状態に相当し、息を吸った状態が弛緩=リラックス状態に相当するわけだが、
「深呼吸してリラックスしてください」と言われて、息を吸ってから吐く奴はいても、吐いてから吸う奴はいないだろう?
人間は落ち着くために呼吸をしろと言われたら、
酸素を体に供給するために息を吸ってから息を吐いて緊張し、次の何かに備えておこうとする。
つまり「ため息」は「次に備えるために酸素を供給する行為」でしかない。
それこそが本当であるのは、
ため息をつくためには息を吸わないといけないのだから、
「まず酸素を体や脳に供給しようとする」という所作からもわかる。
ため息をつくためにはまず息を吸わなければならない。
息を吸うことで酸素が体や脳に供給されて、疲れた体が少しだけリフレッシュされる。
ゆえに、ため息をつこうとする状況とは、自分の状況を把握するために必要な儀式である。
それを無理にやらないようにすることは、体や脳に酸素が巡らずにストレスがたまる原因にしかならない。
だから運動したあとに一休みするときだって、息を大きく吐く=ため息をつくだろう?
他にも色々あるが、まあ、呼吸はわかりやすい一例だよということ。
運動経験があったり礼法を厳しく仕込まれたりした人の呼吸は中々「整っている」からよくわかる。
一緒にいても呼吸が不快にならない人って、それだけで印象がよかったりするもんだからね。
胸式呼吸をせず腹式呼吸をするから肩が上下せず、体が安定して、落ち着いて見える。
たったそれだけで相手がソワソワしている感じがなくなる。
子供がいつでも落ち着かないように見えるのは、大半の子が胸式呼吸をしているからでもある。
・・・・・・そんなものをお前は常時意識しているのかって? もちろん。当たり前だ。
誰からいつ教わったのかって?
そんな簡単なことをわざわざ教わる必要なんかないだろ、子供でも観察してりゃ気づけるくらいには。
少なくとも僕はそういう人間だ。このブログでも散々喋ってきたが、この記事だけ読む人にはわかるまい。
また、しかし、かといって。
そういった小手先の知識だけで他人を見抜けると思い上がっているバカは無数にいる。
マナー講師だのコンサルタントだのメンタリストだのご意見番だのと呼ばれる人種は、
少しだけ賢いバカが、大差ないバカにマウンティングして不安を煽って稼ぐわけで、要するに僕の敵である。
より正しく言うと、僕の面倒を増やすクソ野郎だ。
だからこそ、少し何かの知識をかじったくらいで他人を見抜けると思ってるバカ(特に女に多い)には、
逆にこちらから中身を試してやればいいわけだ。
その中でもとっても象徴的で便利なものは「腕を組む」というサインと、「目線を右上に向ける」というサインだ。
一般的に「目線が右上に動くときはウソをついている」とされているが、
「あえて目線を右上に向けながら本当のことを言」えば、どうなるのか?
あるいは僕がたまにやる、
目線をグルグル回しながら首をグルグル回して変人のフリをする仕草を見せつければ、
「もはや何をやっているのかわかったものではない」。
目線でウソが見抜けると思っている、人生経験も技量も足りないバカは、目線ひとつで騙せるわけだ。
もちろん「やましいことがあるから目を背ける」というのも大嘘だ。
ものすごい親切さ、優しさに触れてしまったときは、やましいことがなくても目なんて合わせられないだろ?
本当に好きな人が急に目の前にやってきても直視できないのと同じこと。
目を背けるだけの理由があったのなら、
それが「見るも無惨な大怪我」なのか「待ち望んでいた奇跡のような幸せ」なのかは関係がない。
自分にやましいことがなくても目は背ける。なのに目線だけで心中など察せられようもない。
僕の実体験から言うと、僕のチ○コの大きさに驚いて目を背けてしまった女性がそこそこいる。
彼女らは「えっウソちょっと待って」などと仰り目を背けて笑って「コレおっきくない?」などとも仰っていたが、
両者ともにやましいことなんて何もないだろう? 思考の冷静さを取り戻すために目を背けることもあるのだ。
まあ、自分の手首より太いモノが出てきたら、入るのかどうかは心配になるよな・・・それはさておき。
「腕を組む」という動作も同じで、
一般的には「心理的に相手を拒絶している」などということで無礼相当の動作だとされているが、
実はあの腕を組むポーズは、脳の回転が速まることでも知られている。
「考え事をしている人物のイラスト」を想像したら、
だいたいの人が腕を組んで首を傾(かし)げた「よくあるポーズ」を想像するだろうが、
あれはまさしく「思考するために最適化された姿勢」でもあるのだ。
だいたい腕を組んだら無礼だという主張は、いつどこで誰が言い始めたのかご存知だろうか?
「偉い人の前では相手から手が見えなくなるようなことをするな」というのは、
暗殺防止のための作法として合理的だが、まさかあなたは暗殺リスクのあるような要人ではあるまい。
ではなぜ、腕を組むことは無礼だの拒絶だのという、
あなたにとって都合のいい解釈がなされたのだろうか?
そうだね、礼儀作法や細かい挙動で難癖をつけて相手を試して見抜いて見下して、
その程度のヤツなんだと短絡的に勝手に決め付けることで、
自分のチンケなプライドを守ろうとしているだけだよね。
同様に、
手を組んだときにどちらの手が上になるのかで心理だの性格だのがわかると言われているが、
もちろんそんなことはない。
客商売をやっている人なら「利き手(右手)を殺す」習慣があるから左手が上になるだろうし、
左利きなのか右利きなのかという問題もあるだろうし、
どちらの手をどう使うのかという問題に、性格なんてものはあまり関係がない。
剣道をやっている人なら「左手が下」になるほうが自然であろうのと同じことで、
そのように言い張っているというだけの話は、絶対的に正しいわけじゃない。
たかが心理学の薄っぺらい知識ごときで他人を見抜けるなら、
この世の政治家や経営者は全員心理学者であるはずだろう?
だが実際はそうじゃない。
失礼だが率直に申し上げるなら、お前ごときのオツムで何かがわかるとでも思っているのか?
学校のテストでさえ満点が取れなかったくせに、
学校のテストよりも複雑怪奇で多種多様な他人の中身なんて、見抜けるとでも思っているのか?
他人のことなんて1%でも理解できたら幸せだと思っておいたほうがいい。
わからないのが当たり前だからこそ、分かり合えたら、わかってくれたら嬉しくなるんだ。
・・・・・かくして、
僕のように医学の知識と格闘技の経験と礼法の素養がある人間であれば、
意図的に、しかし気づきにくい不快感を与えるような動作をすることもできる。
そして僕は初対面の相手の前では必ず、意図的に、不快に感じるような仕草を1つ以上仕込むことにしている。
呼吸をコンマ秒単位で乱し、歩幅をcm単位で乱し、姿勢をミリ単位で崩し、重心をミリ単位で乱し、
少なくとも自分と同等以上の知性か技量を持つ相手ならば、その不自然さに気づけるように演技をする。
全く気づけないのか、気づいて黙っているのか、怪我か何かの後遺症だとみるのか。
まあどんな反応を寄越すかも、僕にはだいたいわかっている。
9割以上の人はそもそも気づけないのだがな。
そもそも僕の体重が90kg以上あることを正確に言い当てた人ですら、100人に対して1人もいない。
僕の体の主成分は筋肉と骨だから普通の人よりも明らかに重いが、見た目は体重(皮下脂肪)に対して細く見える。
筋肉を鍛えたこともつけたこともない人にとって、筋肉の重さと見た目なんてわかるわけがない。
だがだからこそ、運動経験の有無というのは結構わかるものだ。
跳躍系競技をやっていた人の骨盤だなとか、バレエをやってる人の歩き方だなとか、
ウエイトトレーニングはやってるけどスポーツはやってない人の体型だなとか。
意図的に空手の礼をしてみたり、剣道の礼をしてみたりもする。
だいたいの人が気づけないけど、たまに察しがつく人はいる。
軍隊式の礼法も一応心得てはいるけれど、そんなものは滅多にやらない。
そうやって会う人ごとに異なる印象を与えてまわって生きてきたから、
僕の評価はそう簡単には定まらない。
おかげで、同じ人間である僕に会ってるはずの複数名が、それぞれ全く別の人物だと認識していたこともあるほどだ。
それこそ同じ空手でも、いわゆる伝統派(一番メジャーなやつ)と琉球空手では、立ち方が微妙に違う。
僕は両者を使い分けることで、空手だとわかる人に対しても揺さぶりをかける。
歩き方だって剣道と柔道と空手道とではバラバラだから、
日頃から歩き方を工夫して、靴の磨り減り方を偏らせておく。
そうすれば靴底の磨り減り方から僕の人物像を見抜こうとした奴を「カモれる」。
歩くときに踵から地面につけるスポーツと、つま先から地面につけるスポーツとがあるから、
どちらの歩き方をするのかでも、足音や歩くときの体のブレを変えられる。
そうするだけで「変わった人だな」と印象づけることは容易になる。
いいか悪いかよりも印象づけることが最優先される状況では、
そういった、一般的ではない奇妙な動作を使い分けることができると、
・・・・・・そんなことを本当に毎日常時徹底しているのかって?
逆に質問するが、
その程度のことを毎日常時徹底できないような生き方をしてきたってことは、
あなたは僕よりも努力をしてこなかったし、自分を律することもできない、ってことになるわけだが、それでいいのか?
そこまで常時考えて徹底していられるような集中力や精神力や知力の持ち主が、
そうでない人に、本音や本心や本性を簡単に見抜けるとでもお考えならば、
あなたはだいぶ人生経験が足りないと言わざるを得ない。
たかが子供のことでさえ完璧に理解している親がいないのだから、
親子よりも疎遠な他人のことなんて、わかるわけがない。
わかるわけがないからこそ、わかりやすくアピールすることも大切になる。
俺は私はこういう人間なんですよと。
とある女子読者モデル諸君の女子会に(ここでは言えない致命的な理由で)呼ばれたとき、
乳首の触り方だけでも20パターン以上あるぞと相手の指先に対して実演披露したことがあったが、
「あなた何者?」と質問攻めにされたこともあったが・・・
少なくとも僕がそういうことをやれるのは、
生まれ持った病的に高い知能と体力、
人生で最初に読んだ本が解剖学書であった事実と、親が特殊極まりない医者であったことと。
そういった複合的な要因に由来しているわけだから、
大半の努力は才能だけで省略できてしまっているといえる。
だから教えてくれというなら教えてもいいが、
どの程度なのかという感覚自体は教えられないから、
「あとはあなたがいついかなるときでも意識し続けて経験を積むしかないよ」となるわけで・・・
ひとつヒントをくれというなら、
通勤ラッシュですれ違う全ての人の靴と服と髪型を、
覚えろとは言わないから、必ず「目に入れる」よう意識してみるといい。
できるわけがないと思うだろ? やろうと思えば結構できるんだよ。
毎日なんとなく生きている部分を、意識して詰めてみようとするだけでいい。
勉強もダイエットも子育ても何もかも、最後は「日常」の高品質化が求められるのだから。
長靴をはく用事がある人は恐らく、雨の日に水溜りができる道をそこそこ歩くのだろうし、
長靴をはいていない人は、はくことが許されていないのか、気にしないのか、あまり歩かないのか。
買い物カゴの中身から他人の家の献立を想像するのは主婦の基本だと、まあ幼稚園にいた3歳の頃に教わったよ。